お客様はインド人
シドニーの小売店のドアを片っ端から叩いた。
しかし50店くらいに飛び込み営業したものの格安のガスに興味を持ち、
契約書にサインする人は皆無。
日も暮れたため、諦めて帰宅しようとしたその刹那、私は携帯に留守電が残って
いることに気付いた。
「もしや神のお恵みか!」私は興奮しながら、「この声は、インド人の男だろう」
と踏んだ。
しかしどれだけメッセージを聞き直したところで、彼が折り返してくれという
番号の数が極端に少ない。彼は番号非表示でかけてきたが、6桁の番号なぞ
オーストラリアにはどこにも存在しない・・・
すると、それから1分後にもう一度電話がきた。
「ガス屋でしょ?もう一回、ぼくの店に寄ってもらえない?」
「どこの店」
「XXXXXXX」
「そんな店あったかなあ。50店も回ったから分かりませんわ。テキストして
もらえる?」
「えっーさっき来たばかりじゃん」
「1日で50店も回ったからね」
「分かった、分かった、しょうがねーからテキストするわ」
となったところで、目の前の魚屋の厨房から、防水エプロンを付けて、長靴を
履いたインド人の中年おじきが慌てて飛び出してきた。
1日1件は契約を取りたい私は、彼に格安の値段を約束し、なんとか
契約書にサインしてもらうところまで漕ぎつけた。
ところがその時、別のインド人がおじきが同じ厨房から現れた。
「なにやってんの?えっ、ガス屋?サプライチャージいくら?」
「$1.565だけど」
「えっ?俺の家は、$1.532だよ。さらにそこから値引きしてもらってるぞ」
この発言により、一人目のおじきは不安な表情となり、契約を急ぎたい
私の焦燥も手伝って、不穏な空気がその場を漂う・・・
『デタラメ言いやがって。ガスの基本料の少数三桁まで暗記している素人
なんかこの世の中どこにいるんだよ!』
私は怒り心頭だったが、理屈で二人目のおじきをうっちゃることにした。
「へえー。うちより安いサプライチャージを出しているところなんか知らない
けど、それ、どこの会社?」
「YYY」
「だったら、一番高い会社だなあ。それに、どこの会社にしても、ガスの
消費量に対しては値引きできるけど、サプライチャージの値引きは政府の規制
で不可能だよ」
「えっ?」二人目のおじきは嘘がバレて動揺するものの、「いやいやそんな
ことはない。俺の家はちゃんと値引きされてるんだから」としらばっくれる。
そして一人目のおじきになにやらヒンドゥー語で話掛けているが、よからぬ情報を
流していることがありありと見て取れる。
結局、ひとり目のおじきは、来週水曜日にもう一度来て欲しいと言い、
契約を保留。
そして私が翌週水曜日に行くと、「クレジットカード番号も、IDもすべて忘れた、
来週もう一度来て欲しい」と言うのであった。
私はこうなったら何がなんでも彼と契約してやろうと心に決め、翌週、翌々週、
翌々々週と電話を掛けたが、「忙しいからあと1週間待って欲しい」の繰り返し。
その後、私は手のひらを返したように知らぬ存ぜぬを決め込み、早3ヶ月が
経っているが、未だに彼からの連絡はない。