シドニーでマラソン◆「今までの人生で一番うまいビールを飲んだ!」

「グローバルの時代」と呼ばれるようになり、留学したり、海外旅行をしたり、職場で外人さんと一緒に仕事をする人は益々増えていることだろう。私の場合は、会社の辞令でオーストラリアに駐在となった。

オーストラリアで初めてできた友達は、同じ会社に勤めるリチャードだった。彼は金髪で青い目をした生粋のオージーで、ハンサムで身長が高いため、映画俳優のようだった。しかし、オージーの典型のような正確で、大らかで、気取ったところの微塵のないナイスガイ。彼は営業として、私はマーケティング担当として二人三脚で仕事をしたが、英語のたどたどしい私に嫌な顔ひとつしなかった。彼が同僚であったことで、異国での仕事に怯えていた私はどれだけ救われたことだろう・・・

しかし、彼と知り合って1年が経とうとする頃、彼は私を会議室に呼び寄せ、「実は退職することに決めた」と涙ながらに言った。彼の上司から長い間パワハラ━どこの国でもあるものだ!━を受けていたのだ。彼の奥さんが妊娠したことを知る私は心が痛んだが、彼の精神的苦悩を知るため辞職を引き留めることはできなかった。

リチャードが退職する直前、シドニー郊外で開催される14キロのマラソン大会にふたりで参加することにした。彼の前途を祝して、一緒に取り組むことのできるスポーツに挑戦することに決めていたのだ。

十キロを過ぎたころから、太陽が頭上を燦燦と照らし始め、暑く、苦しい展開になってきた。ラストスパートには少し早いが、私はリチャードを完全に振り切るため、ここが最後と思われる上り坂でペースを上げることにした。登り坂でたっぷりと揺さぶりをかければ、音を上げるにちがいない。このレースは日本とオーストラリアの国家の威信をかけた試合でもあるのだ。「負ける訳にはいかない!」

そう考えると、私の疲れた体に力が蘇り、両脚が駿馬のように生き生きと動き始めた。地面に脚を踏み込む一歩一歩の力強さと長い歩幅は前半の動きとは見違えるようだった。坂道を上がるため、心拍は大きく上がり、息は切れたが、全身からはとてもいい汗が流れている。マラソンがこんなにも爽快なものとは知らなかった。

私はランナーズハイの境地に入っていた。力の限り走ることは人生の喜びそのものだった。そして、その喜びはさらに背中を押した。私は楽しむことに集中した。大空と海辺の景色を楽しんだ。まぶしい太陽を楽しんだ。どこまでも続く海岸沿いの坂道。私はここまで走れば大丈夫と思うところまで全力で駆けて行った。そして弾ける額の汗を手で振り払い、後ろを振り返ると、眼前には満面に笑みを浮かべるリチャードがいた!

私はぞっとして顔を歪めたが、リチャードはここが勝負の分かれ目と見たのだろう。大きな二の腕を振りながら、あっと言う間に私を追い越すと丘の頂を目指して風を切るように駆けて行った。ライオンのようなふさふさとした黄金の後ろ髪と、豹のような引き締まったふくらはぎ。彼の後ろ姿を見送りながら、私は精神的にノックアウトとなった。

ゴールのあるパブの中庭から遠い眼下を眺めると、森に囲まれた光輝く入江の中に幾艘もの白いヨットが浮かんでいた。真っ青な空には大きな白い雲が漂っている。この優雅な、いかにもシドニーらしい景色を眺めながら、ふたりはビールジョッキを一気に飲み干した。すると、人生で抱える多くの悩みも、小さな泡となってどこかに消えていくかのようだった。世界は果てしなく自由だった。新たな扉をひとつ開ければそれまで知らなかった世界が確実に存在している。私はリチャードの選択は決して間違いではなかったと確信した。

別れ際、「今までの人生で一番うまいビールを飲んだ!」とリチャードは笑って言った。その言葉を聞いた私は、人種を越えた友情が築けた気がしてとても嬉しかった。

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