タイの熱い夜

長らくパタヤに滞在し、いよいよ翌朝バンコクに戻ることになった日の夕方。

「パタヤ最後の夜にディスコにでも行こうよ」とマナが言った。

「いいよ」パタヤ滞在中、色々と世話になったマナに私はふたつ返事をしたが、

約束の夜9時に宿のフロントに行くと、マナを含めて8名の小柄な男女が

集まってにやにや笑っている。マナと同じく10代後半であるに違いない。

「えっ!?こんなに大勢だったの?聞いてねーよ」

「みんな、お金を持ってないんだよ」

「入場券はいくら?」

「100バーツ(400円)」

「なんだあ、そんなに安いんだったら、全員で行こうぜ」

いつも宿のフロントでたむろっている彼らは顔なじみでもあり、

私は了承することにした。

すると少年少女は歓声を上げ、まるで盆踊りで行くような雰囲気で、

楽しそうに笑いながら歩いてディスコに向かった。

 

結局夜中の2時までドンちゃん騒ぎは続いたが、酒だけでなく、大音響と

めくるめくレーザー光線で酩酊状態になった全員は、帰りがけ宿の近くの屋台

でヌードルを食べて、宿に戻って来た。

時計を見るとすでに午前3時。7時間後にはバンコクに向けて出発しなければ

ならない私は、宿のロビーにある大きなソファーに腰かけ、いつまでも談笑を

終える様子のない彼らに別れを告げた。

 

私は自室のある3階までふらふらの足で上がると、そのままの恰好でベッドに

倒れ込んだ。頭の中では今も大音響が響き、腹の中では未だに40度のメコンが

チクチクしている。それでも私は身体の疲労から眠りに落ちていったが、

大学受験当日までに日本史の暗記が終わらず青ざめている、という何年も前に

終わった学生時代の愚にも付かない夢を見ながら、「ドンドンドン」と扉が叩か

れる音を聞いた気がした。

「こんな時間に俺の部屋の扉なんかを叩く奴がいる訳ないか・・・」

私は朦朧としながら目を瞑っていたが、再び「ドンドンドン」という音。

「やっぱり俺の部屋がノックされているのだろうか?しかしこんな時間に

誰が?なんのために?」と思った瞬間、タイの山奥で日本人がピストルで

撃たれて死亡したというニュースが急に甦ってきた。

「安全なタイと言えども、警戒しなくてはならない!」

酔いも手伝い得体の知れない恐怖が身を包んだため、私はベッドから飛び起きると

「誰だ」と扉の前で言った。

すると、「マナだ」と雌猫のような柔らかい声。

「えっ?どうしたんだよ!」私がなにか緊急な要件でもあるのかと思い扉を開け

ると、彼の背中に隠れるように、一緒にディスコに行ったメンバーのひとりで

ある磯野ワカメちゃんがいた。

 

より厳密に言えば、タイ人のワカメちゃんは波平とフネの娘というよりは、

波平とリサ(映画「猿の惑星」に登場するメスのオラウータン)とのあいの子と

いった方が正確かも知れない。なぜなら顔立ちがそうであるだけではなく、

若干のヒゲも生えていたから・・・

 

そして(かつて自分の彼女を私に一晩貸し出そうとした)マナは言った。

「彼女はバージンなんだけど、今夜この部屋に泊まりたいんだって」

英語のできないワカメちゃんはその様子を見守りながら、モジモジしている。

一方、二日酔いであまりに気分の悪かった私は、ワカメちゃんのこの申し出に

驚く理性すら失っており、とにもかくにも夜中の3時に叩き起こされたことに

腹が立ってしょうがなかった。

「ソーリー、明日の朝早いんだよ!」私はドアをピシャリと閉じると、再びベッド

に倒れ込だ。

「バージンのワカメちゃんは、どうして海の物とも山の物とも知れない行きずり

の外国人、しかも数時間後にはバンコクに経ってしまう人間に、処女を捧げよう

としたのだろうか?ろくすっぽ会話をした訳でも、俺がハンサムであるという訳

でもないのに・・・」

一度叩き起こされた以上、簡単に眠れなくなった私は以上のようなことを考え

ながら、ある不吉な考えが脳裡に浮かんだ。

「もしかして、ワカメちゃんは、俺がハンサムでないからこそ、私に処女を捧げ

ようとしたのかも知れない。きっと動物的な本能で、俺が彼女の同類である

ことを悟り、異常なまでの親近感を感じたのだ。そうであれば、俺はさながら

『猿の惑星』のシーザーであると言う訳か?」

 

翌朝。私を見送るために、マナをはじめ例の少年少女が宿の前に集まってきた。

私は真相を確かめるべく、ワカメちゃんの姿を探したが、しかし彼女だけは

最後まで現れることはなかった。