霊性の国インド

インド駐在事務所の出社初日、私は社長への挨拶を済ますと、人事部の女性社員で、日本語が流暢なプリヤンカさん(仮名)に連れられて外国人登録所に就労ビザの登録に向かうことになった。

 私はワゴン車の窓外に広がるグルガオンの景色を眺め、止むことのないクラクションのうるさい音に耳を傾けながら初対面のプリヤンカさんと話しをした。

「プリヤンカさんはそんなに上手な日本語をどこで習ったのですか?」

「デリーの大学で日本語を勉強しました。夫の仕事の関係で東京で三年間暮らしたこともあります。夫はまだ東京にいますが、いずれインドに戻る予定ですので、私が先に戻ってきました。ススムさんはインドに来てみてどうですか?」

「学生の時からインドにとても興味をもっていました。過去には、バラナシやカイラス山といったヒンズー教の聖地も含めて、色々な場所を旅行したことがあるので、今回、またインドに来れる機会ができてとても嬉しく思っています」

「そうなんですか。ちょっとびっくりですね。インドは貧しくて、汚い所なので、日本人はインドが好きではないと思っていましたから」

「だけど歴史を見ればインドは色々な分野で世界をリードしてきたのが事実ですね」

「はい、その通りです。医学や数学や天文学などはインドが昔に発明して、世界中に教えてきました。今は貧しい国になってしまいましたが、三百年前のムガル帝国の時代は、世界で一番の経済大国でした」

「宗教や精神世界でもインドは世界に大きな影響を与えてきましたね。日本の場合は、仏教がインドから輸入されたので、宗教的、思想的にインドから大きな影響が受けていると言えます」

「はい、その通りです。ススムさんは、精神世界に興味がありますか?」

「はい。精神世界におけるインド人のマスター達の本をたくさん読んだことがあります」

「実は、私にはマスターがいます。子供のころから家族と一緒にそのマスターの本を読んだり、講義に参加してきました。マスターは世界的に有名な人ではありませんが、ダルシャン(マスターに謁見し恩寵を受けること)の際には、外国人を含めて、何千人もの人が集まります。ススムさんは宗教に対して、どのように考えていらっしゃるのでしょうか?」

「私は宗教は川のようなものであり、神は海のようなものであると思っています。すべての川はいつかは海に溶け込み、ひとつになるように、すべての偉大な宗教の行き着く先はひとつだと思っています。仏陀やイエスをはじめ古今東西、多くのマスターが存在してきましたが、真理に到達したマスターというのはすべて同じ地平に立っているのではないでしょうか」

「私のマスターも同じようなことを言っています。どの宗教が正しいとか、間違っているということではなく、神はひとつであることを強調しています。そして、神は外側にいるのではなくて、人間の内側にいるということも仰っていて、瞑想によって自分の中にいる神を見つけなければならないとも仰っています。」

「プリヤンカさんはメディテーションをするのですか?」

「私はマスターの本を読んだり、講義に参加したりしていますが、メディテーションはまだ始めていません。私の所属する教団の場合、メディテーションをするためにはナームが必要です。ナームというのは英語でロゴスと言いますが、マスター様からナームを頂くためには二十八歳になるまで待たなければなりません。私は二十七歳なので、来年申請する予定です」

「マスター様はメディテーションの高位な方法を教えています。それはスラット・シャバッド・ヨグと呼ばれ、悟りに導く手段のことですが、スラット・シャバッド・ヨグを教えることのできるマスター様は世界中でもほとんどおりません。スラットというのは我々の魂のことです。そしてシャバッドというのはナーム(ロゴス)のことです。一般的なメディテーションでは、両目の間の第三の目に意識を集中させますが、スラット・シャバッド・ヨグの場合には、マスター様から個人的に頂いたナームを念じながら自分の両目に意識を集めるのです」

「私のお坊さん、お母さん、お父さんは、皆毎日スラット・シャバッド・ヨグをしていますが、マスター様からご教示頂いたナームとメディテーションの実践方法を他人に教えることは許されていません。マスター様は弟子にナームをお与えになる時、そのナームを実習する力も授けてくれるのですが、他人にその秘密を教えてしまうとマスター様から頂いたナームの力が失われてしまうと言われています」

「またスラット・シャバッド・ヨグを始めるためには、肉食やアルコールが禁じられるなど、いくつかの道義をもって人生を送る必要があります。この教えについては多様な本がございますので、時間をかけてゆっくりと基本を理解されたほうがよいと思います」

「若いインド人の世代で、プリヤンカさんのように精神世界に興味を持っている人は多いのでしょうか?」グルガオンのような大都会に住む若い彼女が、このような話をすることに私は胸を打たれた。

「とても少ないと思います。私は会社でこのような話をしたことはありません。もしも会社でこのような話をしたら、誰かに騙されているとか、変なことに興味を持っている人間と思われてしまいます。みんなお金や経済のことにしか関心がないからです。ですが、人生の意味は仕事や家事だけにあるのではないことを私は存じております」

稼動一日目にプリヤンカさんと出会い、初対面にもかかわらずディープな精神世界の話をすることになった時、私は霊性の国インドにやって来たことを実感した。