「世界の王」の直筆サイン
今週のお題特別編「子供の頃に欲しかったもの」
〈春のブログキャンペーン 第3週〉
どんな人も、子供の頃に憧れのスターがいたに違いない。
小学5年生だった私は、世界の王がそんな人物で、直筆サインを求めて、
すでに丸2年も追っかけをしていた。
その日、正月開けの巨人軍・多摩川グランドは朝から雪が降って
いて、グランドには選手もファンも誰もいなかった。
さすがに屋外での練習はないだろうと思い、ぼくは室内練習場に
向かったが、細い通路の先にある入口には鍵が掛かっていた。
緑のボンネットで覆われた練習場の電気は消え、選手は誰もいない。
「やっぱり今日も駄目か。初めて飲んだ缶コーヒーをもう二本も
飲んだし、帰るとするか」
ところが、凍えたぼくがまさに諦めて歩き出そうとした瞬間、
若手選手を引き連れた王が現われた。
燦然と輝く背番号1のユニホーム。当時すでに巨人軍の監督となっていた王は室内練習場の入口手前に立っているぼくに向かって歩いて来たが、全身から漂うスターの貫禄や輝きは幼い子供にでも分かった。
念願のサインがもらえる機会だというのに、ぼくはポカンと口を開けながら、その場に直立不動で立ち尽くしたまま、鞄から色紙を取り出すこともできなかった。
しかし、そんなぼくに向かって話掛けてくれたのは、意外にも王だった。
「寒いのに偉いなあ」
「はっ、はい」ぼくは大きな彼を見上げて言った。
「どこから来たの?」
「横浜です」
「遠くから来たんだなあ。サインが欲しいんだろ?」
「はっ、はい」
「今、あげるからな」
「ありがとうございます」
「風邪引かないように、早く帰るんだよ」
ぼくはサインをもらえたこともさることながら、世界の王に
話し掛けてもらったことが嬉しかった。
練習が終わると、王はユニホームに細雪を散らしてどこかに向かって歩き始めたが、ぼくは鼓動を高鳴らせたまま、後からついて行った。
すると、王は小池商店のガラス扉を開け、「おでん頂戴!」と店の奥にいたおばあちゃんに声を掛けた。
「王さんじゃないか。雪の中、わざわざ寄ってもらって・・・」
「多摩川に来ると、ここのおでん食べたくなっちゃてね」王は湯気の上がるおでんを一皿ぺろっと平らげた。
「ご馳走さん。また寄らせてもらうわ」
ぼくは王が運転するピカピカの外車を見送りながら、もらったばかりの直筆サインを握りしめながら、おばあちゃんと一緒に深々と頭を下げた。